昨年映画公開時に観た映画、『マチネの終わりに』の原作を読んでみた。
天才クラシックギタリスト・蒔野聡史と、国際ジャーナリスト・小峰洋子。二人の恋の行方を軸に、芸術と生活、父と娘、グローバリズム、生と死などのテーマが重層的に描かれている。(文庫本・裏表紙より抜粋)
小説は、主人公である二人を紹介する序の部分から、著者の語り口が淡々として美しく、好きな文体で読みやすく自然と物語に引き込まれた。
原作を読んで、当時友達が言っていた2時間の映画では表現しきれていなかった詳細が分かり、納得がいかなかった部分もある程度解消出来、何故二人がすれ違ってしまったのかも映画よりも納得出来た。
主人公である蒔野と洋子二人がすれ違ってしまう原因を作った蒔野のマネージャーの行動に、映画ではかなりムカついたけれど、小説ではその場面でのマネージャーの事細かな心理描写によって映画よりは理解出来た。
それにしても、あまりにも相手の気持ちを推し量り、理性的過ぎる蒔野と洋子の行動には、それほど相手を運命の人と感じているのなら、もっとお互いぶつかって行けばとイライラしたのは、映画を観た時感じたのと同じだけれど。
それだと、物語としても単純で直ぐ終わってしまい小説として面白くないか(笑)
そのすれ違いについては、洋子が当時患っていた深刻なPTSDも一因にあったという事が小説ではより具体的に描写されていた。
映画では、洋子はフランス通信社のパリ支局で働いている設定になっていて、そこのビルで自爆テロに遭遇しPTSDになってしまったのだけど、原作では当時戦時下にあったイラクに特派員として何度か駐留し、そのバクダッドの通信社が入っているビルが自爆テロに遭ってしまうので、イラクの現状をつぶさに見てきた洋子の置かれた状況が映画より、より過酷だったのだと感じた。
洋子がパリの家に引き取り面倒をみていた、亡命希望中のジャリーラというイラク人女性についても、その心に抱えている傷がとても深いことが映画より詳しく描かれていた。
なので、洋子の家で蒔野が初めて会った傷心のジャリーラにギターを聴かせる時の場面が映画よりずっと胸に響いて来て良いシーンだった。
その時、蒔野の演奏を聴いたジャリーラが深く感動し快活になっていったことに対して蒔野は、
「こういう境遇でも、人は音楽を楽しむことが出来るのだった。
それは、人に備わったなんという美しい能力であろうか。
そしてギターという楽器の良さはまさにその親密さだ。」
と、ギターや音楽の癒しの力とその場に生まれた温かい感情が渦巻く得難い体験が、その後蒔野が復活する時に自身に力を与えてくれたのがよく分かった。
また洋子の父親は、イェルコ・ソリッチという有名な映画監督で、その代表的な作品である『幸福の硬貨』は蒔野がギターを始めるきっかけとなった大好きな映画という設定だけれど、その洋子が幼い頃に両親が離婚し、一緒に暮らしたことがない父に対して、どうしても訊きたかったことを父に訊く場面が後半出て来るけど、海辺や夕日の情景描写も含めそれがとてもいい場面だったので、この父親が映画には登場しなかったのは残念だった。
洋子と蒔野が初めて会った時、話の中で蒔野が洋子に向けて言った、
「人は変えられるのは未来だけだと思っている。
だけど実際は、未来は常に過去を変えているんです。」
という洋子にとって忘れられない言葉が、この場面での父親からの答えが、まさにずっとわだかまりがあった洋子の父との過去を変えてくれたので、まるで蒔野が長い時を経て、この瞬間のために語ってくれたかのように思えたとのシーンがとても良かった。
私も過去は変えられないと当然のように思っていたけれど、その事実は変えられなくても、過去への思いは、未来によってその見方が変えられることも多々あるのだと、この作品から知ることが出来た。
小説を読んだ友達も言っていたけれど、小説ではハーフで強いイメージのある洋子の容姿の描写と、映画で演じた石田ゆり子さんはちょっとイメージが違ったけれど。
映画では登場しなかった人物では他に、蒔野が復活するデュオ・コンサートで一緒に出演した古くからのギタリスト仲間である武地の部分が省かれていたのも残念だった。
最終章での蒔野のコンサート場面では、映画と同じくらい感動が胸に迫って来て、その場面で演奏されていたバッハの『無伴奏チェロ組曲』などをつい流しながら読んでしまった。
やはり映画は、小説と違い耳からも感動を訴えることが出来るところが素晴らしいので、またそのコンサート場面含め聴いてみたく、この映画も再度観てみたいと思った。
バッハの『無伴奏チェロ組曲』は、私が今読んでいる『ライオンのおやつ』(小川糸・著)にも主人公が癒される曲として出て来るけれど、蒔野がこの全集曲を、ロンドンのアビーロード・スタジオで録音したという部分も印象的だった。
スタジオを指定したのはレコード会社で、蒔野は特にビートルズファンというわけでは
なかったけれど、CD発売後は「あのアビーロードスタジオで録音」と宣伝され気恥ずかしかったとあった。
アビーロードはクラシックの録音でも有名なスタジオだったということが分かった。
余韻の残る美しいラストシーンは、原作も映画も同じで、その後の二人の行方を読者の想像に委ねる終わり方だったけれど、運命的な出会いだった二人が結ばれることを願いたい気持ちだけれど、実際会えたのは三度だけでもスカイプでも色々話し合え、これ以上ないほどの魂レベルで惹かれ合う相手に巡り会え、短くとも中身の濃い時間を過ごせたこと自体は、とても幸せな経験だったのではないかと思った。
この出会った途端に強烈に惹かれ合った二人は、職業の設定こそ違うけど、昨年見た映画『世界のはての鼓動』の主人公二人に似ているなと感じた。
孤高の二人が出会うべくして出会ったという感じで。
最後にあった著者である平野啓一郎さんの解説の中に、イラクに関する取材の過程で、ジャーナリスト故・後藤健一さんに長時間に渡り話を聴けて、この小説の完成を楽しみにされていた後藤氏に本書を届けられないのが残念でならない、との記載に胸を突かれた。
☆ ☆ ☆
話は全然違うけれど、今日私のことを「揺るぎない強さを持った人」と思って下さった方がいたのを知り、そのようなことは言われたことがないし、自分は子供の頃からずっと弱い人間だと思っていたので有難さと共に恐縮してしまった^^;
その事で思い出したのは、以前読んだ寺地はるなの小説の中に出て来た、主人公へ向けた父親の「強さ」についての台詞だ。
お礼を込めてこの言葉をその方に贈ります。
「強いっていうのは、悩んだり迷ったりしないことじゃないよ。
それはただの鈍感な人ですよ。
『強い』は、『弱い』の対局じゃない。
自分の弱さから目を逸らさないのが強いってことだよ。」