解説: 1961年に映画化もされたブロードウェイミュージカルを、スティーヴン・スピルバーグ監督が映画化。1950年代のアメリカ・ニューヨークを舞台に、移民系の二つのグループが抗争を繰り広げる中で芽生える恋を描く。脚本と振付は、共にトニー賞受賞歴のあるトニー・クシュナーとジャスティン・ペックが担当。主人公を『ベイビー・ドライバー』などのアンセル・エルゴート、ヒロインをオーディションで選出されたレイチェル・ゼグラーが演じるほか、1961年版でオスカーを受賞したリタ・モレノらが出演する。
『ロミオとジュリエット』をモチーフにしたこの物語、1961年版の映画は、大人になってから名画座で観た記憶があり、その後テレビで放映されたときは、主人公マリアの吹替を大竹しのぶがやっていて、どうしても大竹さんの顔が浮かんでしまうなぁと思いながら観ていたのを覚えている(;’’∀’’)
今回、スピルバーグ監督がリメイクとのことで観に行って来た。
昔、姉がこの映画の挿入歌である『トゥナイト』と『マリア』の2曲が入ったシングル盤レコードを持っていた。
私はそのとき映画はまだ観ていなくても、曲自体に感動して繰り返しよく聴いていたのを覚えている。
三つ離れた姉は、ロックこそ聴かなかったけれど、当時流行っていたカーペンターズやサイモン&ガーファンクルなど他の洋楽はお互い好みが合っていた。
今回、特に想い出残るこの2曲を聞けるのも楽しみだったのだけど、始まってみれば登場する曲全て耳馴染んだ曲であり音楽的にもとても楽しめた。
特にダンスシーンの『マンボ』や、街中で踊りまくる『アメリカ』など、映像美にも圧倒されその躍動感に胸が高鳴った。
でも今回一番心に染み入ったのは、トニーが働く店の店長を演じていたリタ・モレノが、悲しみの中で歌った『Somewhere』。この場面でのこの曲が一番ジーンときた。
リタ・モレノは1961年版ではマリアの兄の恋人アニタ役を演じていたそうだけど、現在90歳の現役女優で、今回製作総指揮も務めていて凄いなと思う。
また、画面が60年代を感じさせるようなレトロな色味で、その時代の雰囲気が醸し出されていたのが映像的に印象深かった。
その61年度版でもそうだったのかは覚えていないけど、ミュージカルなので、「この状況でも歌っちゃうんですか⁈」と違和感を感じたシーンが二場面あった。
そう思ったのも何度目かで少し冷めた目で観ていたせいかも知れない。
パトカーが駆け付けるのが遅いよーと感じた場面も、昔の刑事ドラマのお決まりパターンを思い出した。
ヒロインであるマリアを演じたレイチェル・ゼグラーは、オーディションで3万人の中から選ばれたそうで素晴らしい歌声だった。
観ていて、やはり昔観た映画の誰かににていると思い、『ある愛の詩』の女優、アリ・マッグローだったかな~と思った。
(アリ・マッグロー)
そういえば80年はじめに、この『ある愛の詩』と『ロミオとジュリエット』の二本立てを観たなぁと思い出したりしていた。
この『ウエスト・サイド・ストーリー』の名を聞くと、家にあったそのシングルレコードの想い出とともに、高校時代のほのかなできごとが蘇る。
高校当時このリバイバル上映が話題になり、自分の姉もこの頃見に行ったのではと思う。
ある日クラスメートの男子が私の席に来て、翌日の休みに一緒にこの映画を観にいかないかと急に誘って来たのだ。
行きたい気持ちもあったけど、その子は私の友達が好きな男子だったので用事があるとか言って断った。
その後、私の友達はその男子に告白して少しの間付き合っていたのだけど、この映画一緒に観に行けば良かったかなぁと、後でちょっと後悔したのを覚えている(^▽^;)
当時私はバトン部に入っていて、その男子は写真部で、文化祭などで私の写真を撮ってくれたりした。写真部が、部室の暗室で写真を焼くという作業も今思うと懐かしい。
私を実際に知っている人が、私が学生時代バトン部だったなんて聞くと、ドラムをやっていると聞いたときと同じように意外に感じられるかもだけど、普段は全く目立たない一生徒だった(笑)。
なぜバトン部に入ったかというと、小学6年の頃、当時高校生だった従姉がバトン部で、遊びに行ったときにバトンの回し方を教えてくれ、持っていたバトンを1本くれて、それ以来バトントワラーに憧れていたからだった。
高校生になって最初は美術部に入ったのだけれど、1年の2学期からバトン部が出来たので嬉々として転部したっけ。
と、映画の話とは関係無く脱線してしまった^^;
この映画を観たシネコンが入っている大型ショッピングセンターには、大きな楽器店が入っているので、電子ドラムの下見がてら今回ここで観たのだけれど、電子ドラムの件はまた今度書くとして…。
このところバタバタしていて、この映画を観てからもう1週間以上経ってしまったけれど、以上ここまでは観て日が浅いうちに、ある程度メモって下書きに保存しておいた。
この1週間でウクライナ情勢が緊迫度を増し、大変な状況に陥ってしまった。
民族対立による抗争と悲劇を描いたこの作品は、既に観た方で、今の情勢に共通していると感じている方も多いんじゃないかと思う。
コロナ禍であっても今までと同じ日常生活を送れるのは幸せなことであると思うと同時に、核兵器のあるこの世界では、もはや対岸の火事ではないとも思う。
それに関連して、以前映画の感想記事に書いた17世紀のイギリスの詩人、ジョン・ダンの『瞑想禄第17』の一節を思い出した。
この時は詩を少し省いて引用してしまったので、今回改めて書き留めておこうと思う。
何人も孤立した島ではない。
いかなる人も大陸の一片であり、全体の一部である。
一塊の土くれが海に洗い流されても、ヨーロッパがもとの姿を失わないように、あなたの友人あるいはあなた自身が洗い流されたとしても、それが無に帰するわけではない。
だがいかなる人の死も、私の一部を失った気にさせる。なぜなら私は人類の一員なのだから。
それ故私はあなたがたに言いたいのだ。あえて知ろうとするには及ばない、誰がために鐘は鳴るのかと。
それはあなた自身のためにも鳴っているのだから。
このときの記事にも書いたように、ヘミング・ウェイがこの中の一節から『誰がために鐘は鳴る』のタイトルにしたというこの詩は、「戦場で鳴り響く鐘の音は戦死した人だけではなく、それを聞く者全てのための鳴るのだ。」という意味だそうだ。
この詩から、人は孤独ではなく世界は繋がっているのだ、という示唆もあるように改めて感じると同時に、
「いかなる人も大陸の一部であり、全体の一部である。だから、いかなる人の死も私の一部を失った気にさせる。なぜなら私は人類の一員なのだから。」
という部分が今、この世界情勢の中読むと特に深く心に響いてくる。
習慣にしている瞑想のときのBGMで、最近新たにお気に入りをyoutubeで見つけ、それを微かにかけながらの瞑想中、その鐘の音でふと以前記事に書いたこの詩を思い出した。
自分にできることは、祈ることか反戦デモに参加することかと思うけど、量子力学の世界では、人間の意識は万物に影響を与えていて、「思い」も波動となって伝わって行くといわれているそうだから、世界中の人からの祈りにも絶大な効果があるように思う。
(BGMとして流しているだけでも心が落ち着きます。)