『じっと手を見る』(窪美澄・著)を読んでみた。
物語は、山梨県の富士山を望む町で暮らす介護士の日奈を中心に描かれている。
同じく介護士で日奈の元彼氏でもある海斗、その町に介護福祉学校のパンフレットを制作するために取材でやって来た、東京のデザイナー宮澤、海斗の同僚で、海斗と次第に関係を深めていく畑中。
それらの登場人物の視点で次々に語られていく連作短編集。
早くに両親を亡くし、優しい祖父に育てられた日奈は、庭が荒れ果て今にも崩れそうな家に一人で住んでいる。
そんな日奈から別れを切り出された後でも、変わらず何かと世話を焼き日奈を支えている海斗。
そんな頃、日奈は東京から来た宮澤と出会い惹かれて行く…という話の始まり。
私の両親も最後は介護施設でお世話になったので、それまでも見聞きして来た介護士の仕事の過酷さは、多少なりとも実感として伝わって来て頭が下がったのだけど、主人公の日奈や海斗も心身ともにギリギリの状態で日々奮闘している。
海斗は両親の生活を支え、弟の大学費用も援助しながら自分も社会福祉士を目指して何年か働いたら大学に通うことを目標にしている。
タイトルになっている、石川啄木の歌集『一握の砂』の中に収められている、
はたらけど
はたらけど 猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る
のような、まさに二人ともそんな閉塞感いっぱいの毎日を送っている。
この二人を中心に、語り手が入れ替わることによって、登場人物たちの個々に置かれた状況や心情が次第によく伝わって来て、心に沁みる場面も多かった。
人は見た目じゃ分からないのはもちろんだけれど、たとえ家族や友達・同僚であっても、私が知っているのは私から見えるその一つの側面だけで、人の内面は計り知れない。
この作品を読んで、改めてその思いを強くした。
例えば、デザイナーである宮澤自身が語る回は、生まれつき全てに恵まれている人生のように見えても、退屈と倦怠が自身を蝕み続け、色々行き詰って死にたくなるような心の闇を抱えている。
この宮澤がある日、日奈と巨大な防波堤のある海を見に行って、何故この景色を見たいと思ったのかふと気づく場面がある。 それは、
「この壁が自分の中にもあるからで、自分は誰とも心を深く通わせたくはないし、誰かの心を簡単に分かった気持ちにもなりたくない。(中略)
自分一人の世界でしか僕は生きられないし、僕の理解者は僕一人しかいないのだ。」
人との関わりが好きな私でも、この宮澤の心情はとてもよく分かるような気がした。
前にも何かで書いたけど、生まれてから今までの自分を全て知っているのは自分自身だけなのだから。
そして、「(言葉にも態度にも迷いがない)海斗の世界は、なんて理路整然としているのだろう。」と、海斗を羨ましく感じる宮澤の心境にも共感した。
海斗に思いを寄せ近づいて行く同僚の畑中も宮澤と同じで、人が必要以上に自分に近づくと逃げ出したくなるタイプだ。
元夫との間の子供に虐待していた過去があるはすっ葉な印象の畑中も、介護施設で問題が起きた時に、正しさや理想論だけでは割り切れない仕事だと一番理解しているんじゃないかと思えた台詞が心に残った。
この文庫版の解説を書いている朝井リョウも、
「各登場人物の心が立体的に分かっていくというのが連作短編集の王道だけれど、今作は様々な角度から人物が語られれば語られるほど、その人物の欠落が深まって感じられるところが面白い。」と評している。だから、
「人の悲しみや、寄る辺なさや、どうしようもなさは、理解できないのだということを思い知って行く。」
という部分にとても共感できた。
他にも解説の中で深く共感した部分は、
浅井リョウ自身が窪美澄作品の中から受け取った大切な一行について、
「長い物語の中にある一行だからこそ、忘れられない人生のおまじないになっている。
言葉の銀河の中から自分で選び、受け取り、自らに引き寄せるからこそ、言葉が身体に跡を残すような感覚を得られる。」
と書かれていて、
自分が本を読むその醍醐味も、ブログに書き留めておきたくなるのも、この点にあることに改めて気付かされた。
著者である窪美澄の小説を読んだのは今回で2作目だ。
数年前に読んだ島根県松江市を舞台にした『やめるときも すこやかなるときも』が、切なくとていい作品だったので、本作のタイトルに惹かれたのもあり久しぶりに読んでみた。
この作品は私にとっては『やめるときも すこやかなるときも』ほどの感銘は受けなかったものの、同じく余韻の残る物語だった。
映画化された『ふがいない僕は空を見た』も未読だけれど、機会があったら読んでみようかな。
この小説に合うBGMを考えるとしたら、この曲が合うような気がした。
クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング の"4+20”
ところで、今日8月9日の長崎原爆の日は長男の誕生日でもある。
出産予定日は6日だったため、長崎と広島の原爆忌はそういった意味でも忘れられない日だ。
長崎の原爆投下時間は午前11時2分で、長男の出産は夜の11時を少し回った頃で、朝と夜の違いはあるにしてもそこにも何か意味がある気がした。
不慣れな育児で、まさにじっと自分の手を見つめるような日々だったような気がするけれど、それ以来毎年この頃が巡って来ると、子供の未来のためにも核兵器廃絶を強く願っている。