つるひめの日記

読書、映画、音楽、所属バンド等について日々の覚え書き。

読書感想『ガラスの海を渡る舟』『その日まで』

『ガラスの海を渡る舟』(寺地はるな・著)

主人公は、祖父のガラス工房を引き継いだ道と羽衣子の兄妹二人。

その10年間を、それぞれの視点で描かれた連作短編集。

両親は2人が子供の頃に別れていて、兄の道は人とのコミュニケーションが苦手だ。

道の普通の人とは違う言動を、何かと疎ましく思っていた父。それに対し道をずっとかばってきた母。

妹の羽衣子も、自分は普通に何でも出来ても当たり前と、親から褒められたことがないと感じ、兄のことがずっと嫌いだった。妹にいつも反発されていた道も妹のことが苦手だ。

そんな二人が祖父亡き後に、思いがけず力を合わせて、ガラス工房を立て直さなければならなくなる。

そのガラス工房にある日、若くして亡くなった娘の骨壺をつくって欲しいという女性が訪れる。それがきっかけで、羽衣子より積極的にガラスの骨壺の制作に乗り出す兄の道…

というストーリー展開。

 

以前読んだ著者のデビュー作『ビオレタ』も、「棺桶」になる小さく美しい箱を売る、ビオレタという雑貨屋が作品の舞台だった。

『ビオレタ』での棺桶は、自分が手放したい思い出など抽象的なものを入れる箱だったけれど、人の心に寄り添う優しさで、喪失と再生を描いている点で同じ雰囲気のような作品だった。

 

祖父の葬儀で、愛する祖父の骨の欠片をとっさにポケットに入れてしまった道に、それがきっかけで「手元供養」について道に優しく説明してくれた葬儀社の女性と、道とのその後の展開や、

兄のガラス職人としての才能に嫉妬していた羽衣子が、自身の失恋をきっかけに、兄の思いやりに気付き、兄妹の距離が近づいていく過程などがとても良かった。

 

祖父から道が子供の頃から言われ続けてきた、

「人は、一人一人が違うという状態こそが『普通』であり、皆同じという方が不自然。」との言葉が特に心に残った。

金子みすゞの詩の中での「みんなちがって みんないい」に似ているようだけど、皆同じというのはむしろ不自然なのだということが、強調されているように思う。

 

物語は2021年春から始まり、10年前に遡りそれからの数年間が描かれ、また2021年5月で終わっている。なので、コロナ禍からの様子もリアルに描かれている。

今回の作品も、著者が生まれ育った大阪が舞台だけれど、2011年震災後、主人公達が暮らす大阪でもドラッグストアの棚から品物が無くなり、赤ちゃんがいる家庭も苦労した様子が描かれている。

「でも、被災した人たちはもっと大変な状況やし、今もね。」

もっと大変な人がいる。その言葉を口にするとき、人は自分自身の感情をないがしろにしてしまう。自分が感じた恐怖は自分自身のものなのに。

この辺りの気持ち、自分も当時を色々思い出しとても共感できた。

私も東北の人たちの置かれた大変な状況に比べて、自分は温かい布団の中で眠れるだけでも幸せだと思ったし、当時自分が少しでも大変だと思うのは後ろめたく感じていた。

コロナ禍でも、そして今の世界情勢の中でもそうだけれど。

 

自分のことを少し書いてしまうと、2011年の震災少し前から、高齢だった実家の父も義父もどちらが先に亡くなってもおかしくない病状で、4月に入り2週間ちょっと違いで双方のお葬式を挙げたので、震災で仕事も多忙だったのもあり、自分自身もかなり疲労していた。

義父の葬儀中は余震が続いていて、父の葬儀の時は、震災で亡くなった東北の方々のご遺体の多くも、都立の火葬場に運ばれて来ていた関係で、葬儀の日程もずれ込んだのだけど、そのことからも被災地の混乱している状況を伺い知ることができた。

その頃、葬儀で休んだ私の仕事を引き受けてくれた仕事仲間も、震災後は精神的に不安定になっていたというのを後から聞いたし、そういう人は関東でも大勢いたと思う。

私も当時放射能汚染についてかなり不安な気持ちだった。

と色々思い出し、なのでこの、

もっと大変な人がいる。その言葉を口にするとき、人は自分自身の感情をないがしろにしてしまう。自分が感じた恐怖は自分自身のものなのに。

という部分にも共感できた。

今でも、地球上で同じような気持ちの人は多いのでは。

置かれた状況も、ものごとの受け止め方や感じ方も人それぞれであるので、この辺りを読んで、自分の感情はないがしろにせず自身で受け止めてあげて、心を守ることも大切だと思った。

話の終盤、「前を向けないのは、まだ前を向く時ではないから。」と、ガラスの骨壺を依頼したお客さんに向けての、道の台詞も心にグッとくるものがあった。

 

ガラスの色や模様は、どんな風に出るのか毎回ある程度しか予想がつかず、だからガラスは、自然を完全に制御することは出来ない「海」と同じだと感じた道。

その道たち兄妹が作るガラス製品の美しさに思いを馳せながら読んだので、家にあるブルー系のグラスを本と一緒に撮ってみました♪

この小説を読んだのはかなり前で、まとまらないまま下書きに保存しておいたけど、心に残った小説だったので手直ししUPしました。

 

 

『その日まで』(瀬戸内寂聴・著)

昨年99歳で亡くなった著者の最後の長編エッセイ。

2018年5月の誕生日の日から、日々のこと、人生で巡り会った忘れ得ぬ大切な人々のことや家族の記録などが書かれている。

自らの老いに向き合い、自分の「その日」をどのように迎えるのだろうと、冷静に見つめられていた。

「戦争も、引揚げも、おおよその昔、一通りの苦労は人並にしてきたが、そんな苦労は、九十九年生きたはてには、たいしたこととも思えない。」

と書かれていたけれど、北京からの引き揚げや、命からがら日本に帰って来ても、既に母と祖父は防空壕で亡くなっていたなど、そんな辛い体験をしても、今思うと大したことに思えないという心境に至ったのは、長く生きてこられたからなのか…出家するまでも激動の人生だったからなのかなと感じた。

 

この世で何十年一つの家に暮らしたところで、人間は互いの心の隅々まで見透かすことなどあり得ず、人は生まれて以来常に一人である。

あの世でも一人だと釈迦もキリストもつぶやいている。愛執も怨みも、この世で生まれたものは、この世で終わりではないのだろうか。死はなにより潔い清算である。

あの世や来世で縁が続くというような、考えは持っていなかったようだけれど、99歳になってそのような気持ちに至ったのだろうか。

この辺りを読んで、この世との別れに、未練もなくきっぱりとしたものを感じた。

 

また、「百年も生きめぐり逢った人の中で、逢えて本当に良かったと思った人は案外少ない。親しくなりすぎるといざこざが多いから。」

と書かれていたけれど、そんな中でも、忘れ得ぬ人達との思い出の中で、三島由紀夫萩原健一とのエピソードが印象的だった。

三島由紀夫には、寂聴さんがまだ小説家になる前にファンレターを出し、普段は返事を書かない三島さんが「あなたの手紙はあまりにも面白かったので。」と思いがけず返事が来て文通を通して交流が始まったとのこと。

思い切って自分の小説を送って読んでもらったときに、「手紙は面白いのに何故小説はつまらないのだ。」と言われたそうだ。

 

また、寂聴さんを「お母さん」と呼び、親しい間柄だった萩原健一については、

「これまで本当の天才や偽天才の多くに会って来た中で、本当の天才は、孤独という冠を自分の知らない間に頭に戴いている。その冠をかぶったままあの世に帰っていく。」

と、萩原健一さんもそのような天才の一人だと言われていた。

 

著者より年下の、既に亡くなっている田辺聖子河野多恵子、大庭みな子、と4人で仲が良かった当時のほのぼのとした交流の場面も興味深かった。

 

長生きするということはそれだけ見送る人も多いということで、悲しさ寂しさもひとしおなんだろうと読んでいて改めて感じた。

死は、なにより潔い清算と書かれていたけれど、今はあの世で、親しかった人たちと再会して、あのお茶目な笑顔を浮かべているような気もする。

 

生きた喜びというのは、身に残された資産や、受けた栄誉ではなく、心の奥深くにひとりで感得してきた、ほのかな愛の記憶だけかもしれない。
結局、人は人を愛するために、愛されるために、この世に送り出されたのだと最期に信じる。

との言葉は、いかにも寂聴さんらしいと感じた。

 

最後に、桜の写真を(*^-^*)🌸🌸🌸

最近の近所の桜です↓

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以下は、今の時期、過去に撮った、山梨県甲州市にある樹齢300年以上のイトザクラで有名な慈雲寺と、その近くの周林禅寺にて。

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