つるひめの日記

読書、映画、音楽、所属バンド等について日々の覚え書き。

『始まりの木』(夏川草介・著)~これからは民俗学の出番

主人公は、民俗学を研究する東々大学の准教授・古屋神寺郎と、彼のもとで学ぶ大学院生・藤崎千佳の二人。

「藤崎、旅の準備をしたまえ。」との古屋の一言から、毎回、日本各地、昔ながらの風景が残る場所へ研究の旅が始まる。

作品舞台は、第1話での青森県弘前市から、京都(岩倉山・鞍馬)、長野県松本市高知県宿毛市、東京都文京区など。

古屋は、毒舌家で偏屈な人間だけれど、優秀な民俗学者。その古屋の毒舌をものともしない、千佳の切り替えしが絶妙で、二人のやり取りに笑える場面も多かった。

読み進めるうちに、千佳は古屋を心から尊敬しているのが伺え、古屋もその偏屈さとは裏腹に、千佳を信頼していて、実は温かい人柄であるのが伝わってきた。

足が悪く、杖をついて歩く古屋の、その過去の事情も分かって来る。

 

古屋は若い頃、長野県にある樹齢四百年を超える大樹、伊那谷の大柊」を見たことが民俗学を志すきっかけとなった。それが始まりの木。

「現代は、自然に対する謙虚さが失われ、金銭的な豊かさと引き換えに、精神はかつてないほど貧しくなっている。」

こういった古屋の言葉からも、この物語を通して、今の世の中に警鐘を鳴らしているのが感じられた。

 

旅の途中での不思議な体験

二人が京都を訪れた時、街角でばったり遭遇した少年と一緒に、鞍馬へ向かうため、叡山電車に乗る場面がある。

そこで二人は不思議な体験をするのだけれど、その部分は電車の中で読んでいて、涙が止まらず困った箇所。

以前行ったことがある鞍馬自体、いかにも幽玄な世界という雰囲気だったけれど、叡山電車から見える、もみじのトンネルなどの描写も何とも美しく、読みながら、その色彩が目の前に広がって見えるようだった。

また高知県の山道で、千佳は、不思議なお坊様を見かける。

実際、四国のお遍路での山道では、道に迷ったとき立派なお坊様と出くわし、行き先を教えてくれるという言い伝えがあるそうだ。

お遍路の菅笠に書かれている言葉、「同行二人」とは、

「お遍路はたとえ一人旅であっても、お大師様が寄り添ってくれる二人旅。」という意味で、

「仮に5人で旅していても、それぞれに弘法大師空海と1対1という関係は変わらない。」それが四国の霊場だそうで、この部分もとても興味深くて心に残った。

そういえば、好きな寺院である「東寺」や「高野山」は、空海が開いた真言密教の聖地だった。

世の中には理屈の通らない不思議なことがたくさんあり、そして何より、理屈より大切なことがたくさんある。

科学や論理では捉えきれない物事が確かに存在する。

目に見えること、理屈の通ることだけが真実ではない。

そういう不思議を感じることが出来ると、人間がいかに小さくて、無力な存在なのかが分かって来る。

 

千佳は旅の途中、民俗学は興味深いものの、学んで何の役に立つのか。世の中での役割についてや、自分自身の将来について思い悩む。

それに対して古屋の、「就職の役には立たない。だが、人生の岐路に立ったとき、その判断の材料を提供してくれる学問だ。」との一言に、なるほどと私も思ったし、そして、「これからは民俗学の出番だ。」という言葉にも納得だった。

 

物語後半、古屋の古くからのからの知人である、大学近くのお寺の住職の話からも、忘れがたい言葉がたくさんあった。そのお寺の境内にある樹齢六百年の大木は、道路を通すため、まもなく失われる運命にあった。

「今の世の中は、大金持ちと、大声を上げる奴らが正しいということになっている。」

「大切なのは理屈じゃない。大事なことをしっかり感じ取る心。人間なんてちっぽけな存在だってことを、素直に感じ取る心。その心の在り方を、仏教じゃ観音様って言うのだよ。」

「神も仏もそこらじゅうにいる。風が流れたときは阿弥陀様が通り過ぎたときだ。小鳥が鳴いたときは、観音様が声をかけてくれたとき。」

風が流れたときは、阿弥陀様がそばを通り過ぎたとき。小鳥の鳴き声は、観音様が声をかけてくれた声だなんて、なんて素敵な感性だろう。その情景をイメージしただけで、心が落ち着くような気がする。

またその住職によると、「観音様」とは、雲の上にいるような特別な存在ではなく、他人を尊敬したりする心の在り方をそう呼ぶのだそう。

柳田邦男は、なぜ「民俗学」を始めたのか

柳田邦男は、元々農商務省の官僚としてスタートし、エリートコースを約束された人物だった。

後半生を白足袋で全国を歩き回る民俗学者になったのは、勤勉で働き者の日本の農民がなぜこれほど貧しいのか、当時の日本の庶民の悲惨を目にし、この国を貧しさから救う鉄のような使命感があったからだそう。

そんなことも勉強になった。

民俗学」とは、隠居の道楽のようと思われることもあるけれど、無闇と前に進むことに警鐘を鳴らし、ここに至った道を丹念に調べ、どこへ道を繋げていくのかを考えるのが仕事でもある。

より良い未来のために、過去のことをじっくり調べることが、民俗学の役割でもあるのですね。

 

民俗学」、私は全然詳しくないけれど、伝説や神話などの話はとても興味がある。

以前観た映画『すずめの戸締り』も、民俗学の要素が随所に散りばめられていて、その点も興味深い作品だった。

「自分の中にある仏様とは、信じるかどうかではなく感じること。

大きな岩を見たらありがたいと思い、立派な木を見たら胸打たれて頭をさげる。

それがこの国での神様との付き合い方。」

先の住職の、この言葉にも関連しているけれど、決まった信仰を持っていない自分自身が、昔から一番しっくりくるのは、日本古来から伝わる神である「八百万の神」。

自然などあらゆる場所、森羅万象に神は宿っているという。

大自然の美しさを目の当たりにして、畏敬の念を感じたり、その神々しさに神が宿っていると感じたりするのは、多くの人も同じではないかと思う。以前も書いたけれど、私の場合は、山々の稜線を見上げときに、特にそう感じるときが多い。

古屋の言葉にもあったように、自然を前に、常に謙虚な気持ちが大切ということも、この物語からよく伝わって来た。

 

医師でもある著者の夏川草介さんは、人気シリーズ神様のカルテが有名だけれど、著者の作品は、昨年11月に本書を図書館で借りて、今回初めて読んでみた。

神様のカルテ』は、ドラマも人気だったようだけど、こちらも読んでみたいと思った。

巻末での、参考文献の数の多さにもびっくりだった。