最近、興味深い新書を読んだのだけれど、下書きに入れておいた感想記事で、過去読んだ分がまだ残っているので、まずはこちらの三作品から。
『小説家の一日』(井上荒野・著)
昨年末に読んだ作品。タイトルを目にして、エッセイかと思ったけど小説だった。
メールや手紙のやりとり、メモ、レシピ、日記など、「書くこと」をテーマにした十篇による短編集。
主人公は、小説家や出版社勤務など、著者の周囲にいるような人物設定が多かった。
最初の二編『緑の象のような山々』『園田さんのメモ』は、複数作家による短編集などで既に読んでいた。
『緑の象のような山々』でのラストは、二度目でもやはりドキっとした。
決して爽やかな話ではないけれど、主人公の心の闇が描かれていたり、読んでいて心がぞわぞわして来るような意味深な話が多く、印象に残る短編集だった。
『好好軒の犬』は、荒野さんが幼稚園時代の家族の出来事で、荒野さんの両親のことを、母の視点で描かれたものだと直ぐに分かった。数年前『あちらにいる鬼』(井上荒野・著)を読んでいたので。
最近映画にもなったこの『あちらにいる鬼』は、父・井上光晴とその愛人であった瀬戸内寂聴、そして母をモデルにその三人の関係を描いた作品で、荒野さんの友人でもあった寂聴さんが絶賛された小説。
小説家の夫が妻に、「あんたは絶対小説が書けるはずだ。」と言い、荒野さんの母が小説を書き始め、自分の名ではなく夫の名で世に出していたという辺りは、以前この『あちらにいる鬼』でも出て来たので覚えている。
『好好軒の犬』ではその時の描写で、「いつの間にか思ってもいないことも書いていて、それがひとたび書かれてしまうと、それは間違いなく自分が思っていたことになる。」という部分が心に残った。
表題と同じ『小説家の一日』は、著者自身の日常を描いているような内容だった。
『つまらない湖』にも、八ヶ岳の別荘が出て来るけれど、このラストの話では、小説家の主人公と夫は、コロナ禍から八ヶ岳に移住している設定になっていたので、調べてみたら、著者は実際その頃から、八ヶ岳に夫婦で移住しているようだった。
なので、「夫婦で八ヶ岳に移住して来る人たちは最近多いけれど、主に妻の方がその生活に飽きてしまい、一人で都内に帰ってしまい、離婚に至るケースも多いのだ。」というのも本当のことなんだろうと感じた。
小説家であるこの主人公の、小説の題材のヒントを得るために、習慣的にツイッターを開いてしまうという箇所が興味深かった。
怒っている人や悲しんでいる人のつぶやきに同調したりするけれど、それらは小説のヒントにはならないとのこと。
それは、たぶんそれらが「聞かせたがっている言葉」と関係があるからだそう。
聞かせたがっている言葉は、小説のヒントにはならないのだなぁ。
カーラジオから聞こえて来た言葉、通りすがりの人の会話、夢の記憶、そういった小説の素になりそうなことをメモして、Evernoteというアプリ内にストックし、眺めていれば何かを思いつくのだそうだ。
『私と街たち(ほぼ自伝)』(吉本ばなな・著)
よしもとばななのエッセイは、前回読んだのが面白かったので、また図書館で借り、こちらも昨年読んだ作品。
子供の頃に遊んだ街、青春を過ごした街、父の死を見送った道など、東京の「街」をめぐる自伝的エッセイ集。
ばななさんは、子供の頃から色々不器用だったようで、今も「業界付き合いもできないから、したがって選考委員にもなれない。」のだそう。私も子供の頃とても不器用だったので、何だか親しみを感じてしまった。
『もしもし下北沢』では、慣れ親しんだ、下北沢の街の様子が、再開発で一新してしまったことに嘆き悲しんでいる。
下北沢は、私はビートルズ系ライブハウスに訪れたのが初めてで、その頃は既に、駅前の再開発が始まっていたと思うので、それ以前の下北沢はわからない。
なのでばななさんがいう、過去たくさんあった「面白く異様なお店」は知らないけれど、昨年観た下北沢を舞台にした映画『街の上で』では、ユニークな店などがたくさん描かれていて、この街の奥深さが垣間見られ面白かった。
ばななさんによると、今も下北沢でのそれら異様な店は、応援している人たちの力でなんとか命をつないでいるそうで良かったと思う。
「そう、異様なことも面白味も、個人の世界でしかない。常に個人の脳から生まれている。」って言葉もなるほどと感じた。またこの章では、
「自分のこだわりだけが自由を殺しつづける。できごとは、勝手に向こうからやってくる。それを拒むか流れに乗って冒険の旅に出るかを決めるのは、自分だけだ。」
って言葉も心に残った。
(再開発後の駅前)
『暮らしているのに住んでいない』
子供の頃から50年間、夏に西伊豆・土肥に家族旅行に行ってたそうで、その頃からの思い出話。海や泳ぎが大好きだった吉本一家。
当時街で一軒だけあったカフェは、ビートルズマニアのご主人がやっていた。
60年代から、常にビートルズの曲がかかっていてグッズもいっぱいのこのお店、私は行ったことないけれど、昔から噂では聞いていた。
そこでかならずお茶を飲んでいた著者は、ビートルズのどんなマイナーな曲でも知っているし、ビートルズの曲を聴くと必ずその風景が浮かんでくるのだそうだ。
『とても遠いところ』
小説の取材も兼ね、スタッフや小さかった息子さんも連れて、何年か通ったミコノス島での思い出。
自分がどういう風に生きていきたいのか、どういう空気をまとって生活したいのか、それがはっきり分かった場所だそう。
海やプールで泳いだり、昼寝をしたり本を読んだり、夕陽の時間になると夕陽が海に沈むのを見に、必ず港沿いのバーに出かける…その島での、のんびりした過ごし方に憧れてしまった。
食事での前菜には必ず、ツァジキ(材料は、ヨーグルト・ガーリック・塩・すりおろしきゅうり・オイル)をかけて食べたそうで、これは簡単に作れるので、それだけでもマネしてミコノス島に思いを馳せてみた。
『私のことだま漂流記』(山田詠美・著)
こちらは先月読んだ、自伝的小説。
著者の作品を読んだのは、かなり久しぶりだったけれど、昔読んだ『風味絶佳』『無銭優雅』も、とてもいい作品だったのを薄っすら覚えている。
著者と同世代なので、昔愛読していた少女漫画なども同じだったりで懐かしかった。小学生の頃、苛められてもなぜ親には言えなかったのか、その気持ちもとても共感できた。
その時に、著者は読書に没頭することで、上手く現実逃避をするコツを掴み、「心の動きを言葉で表せるようになると、世界は劇的に変わる。」との一文も印象的だった。
小説家になるための土台は、子供の頃からどれだけたくさんの本を読んできたか、ってことだそうだけれど、詠美さんは子供の頃、お金を稼ぐために、先ずは自身が書いた小説を家族に売ろうとした、その失敗談なども面白かった。
デビュー小説『ベッドタイムアイズ』から、様々な誹謗中傷に傷つき、これでは苛められていた小学生の頃と変わっていないではないか、と情けなくなったそう。
その後も色々非難され、でもそんな中でも、若い頃から尊敬し師と仰いできた、宇野千代・河野多恵子・水上勉氏などとの交流話などは楽しかった。
世の中の人種差別や偏見、業界人などに対する恨みなども色々あったのが伺えたけれど、始終ユーモアをまじえて明るく書かれていたので、爽やかな読後感だった。
その破天荒な生き方や様々な経験を積んできたからこそ、世の中の真実が見えて来たり、だから自伝もこんなに面白く書けるのだろうな。
詠美さんが子供の頃、ラブレターの代筆をしていたというくだりで、私も中学時代、友達に頼まれ、好きな男子へのラブレターを代筆したことを思い出した。
その恋は残念ながら実らなかったようだけど…^^;
これらの小説とは関係ありませんが、最近耳から離れない曲を最後に♪
『踊り子』
Vaundyの楽曲ですが、こちらのMVは、小松菜奈が出演。
友人の女性ユニットの方からドラムを頼まれたときに、その他の演奏曲と共に音源が送られて来て知ったのですが、ベースとドラム、歌だけのシンプルな曲だけど、ビートが効いていて、その軽快なリズムが癖になりました。たまにテレビで耳にします。