つるひめの日記

読書、映画、音楽、所属バンド等について日々の覚え書き。

『水中の哲学者たち』(永井玲衣・著)

(お堅い本ではありません。^^;)

昔から一つのことがらに対して、様々な人の考えを知ることにとても興味があった。人によって考え方感じ方など、モノの見方が違うことを発見するのが新鮮でもあり。

学生時代、国語の教科書での題材は、小説の一節よりも、随筆の方が好みだったのも、人の考えがより伝わってきたからだと思う。

人様のブログを読むことも、それと同じで興味深い。

 

今から10年以上前、ネット上で、「哲学カフェ」なるものが様々な場所で開催されているのを知った。興味深いテーマのときなど、一度参加してみたいと気になってはいたけど、一人で参加するのも気が引け、結局参加できずじまいだった。

「哲学」というと、何やら小難しい話かと思いがちだけど、そのテーマは、私たちのごく身近にある題材ばかりだった。

 

1991年生まれであるこの作品の著者は、哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで、ファシリテーターとして「哲学対話」を幅広く行っている。

この「哲学対話」とは、私が気になっていた「哲学カフェ」と同じみたいだ。

 

ひとつのテーマについて、海の中での潜水のごとく、皆で深く考える哲学対話。

「ささやかで、切実な呼びかけである、借り物ではない自分の、または人の問い」

著者の永井さんは、それを「手のひらサイズの哲学」と呼んできた。

本書は、そんな手のひらサイズの哲学について書かれ、一般的には近寄りがたいと思われている、哲学の面白さを優しく伝えているエッセイ。

 

小学校での哲学対話は、死についての問いが一番多いそうだ。

・死んだら人はどうなるのか

・人は何のために生きているのか

・魂の生まれ変わりはあるのか

「小学生で?」とびっくりしたと同時に、やっぱりとも思う。

何故なら自分も子供の頃から、夜寝る前など、自分もいつか死ぬという恐怖を度々感じていたのを覚えているから。

大人になった今でもふとそんな思いに駆られることがある。

今現在切実な病を抱えているわけでもないのに、普段そんなことを口にしたら、暇人だなとか、または煙たがれそうで、とても気軽には話せないけれど。

でも本書での、

「一人称の死は経験出来ない死だ。なぜなら、死んだことを経験する私はもういないから。」という著者の言葉に、はっとした気分に。

死後の魂はあるのか無いのかって話はさて置き、なるほど自分の死とは、自分では経験できないんだ。と思うと、死の恐怖を考えても意味がない気もしてきた。

 

また小学校で、考えたい問いとして一番人気があるのが「生きる意味」だそう。一くくりに子供といえど、内面はみな結構複雑なんだろうと思う。

ある時の6年生たちとの「生きる意味」についての対話では、

「人に生きる意味はない。だっていつか死ぬから」

「確かに人生に意味はないけど、でも生きる意味を作っていくのが人生じゃん」

「でも、死ぬから生きるんじゃん」

などの対話が生き生きと繰り広げられているのだそう。

人は生まれたときから死に向かっているとよく言われるけれど、「死ぬために生きている」というのも一理あると感じた。

その小学生たちの「楽しいこと好きなことがあり、またそれを見つけていくのが生きるということなのだ。」との考えにも共感した。

 

著者が大学の哲学科に入学し、色々な授業を受けても「時間とは何か」わからず、その代わり、なぜ世界は「ある」のか、なぜ気が付いたら生きちゃってるのか、なぜ死んじゃうのか、と同じように震えている仲間を見つけることができたそう。

だから、きっと過去の研究者たちも、世界のわけわからなさに立ち止まり、唖然としたのだろうとあり、この辺りを読むと、世界中の哲学者たちも、わからないことだらけだったのだろうなと身近に感じ嬉しく思う。

 

「自分とは、鏡を通してでしか見ることはできず、実際に自分で自分を見ることはできない。なので、ひとは自分のことをあまりよく知らない。よって、他者よりも他者なのが自分である。」

確かに、自分のことは鏡を通してでしか見ることができない。なるほど、自分のことすらわからないのだから、ましてや他人のことがわからなくて当然であり、著者が小学生との対話を通しての、

「お互いを全面的に受け入れられなくても、お互い多面体だねと飲み込もう。」

という言葉も心に残った。

 

「そもそもわたしたちに「わたし」なんてものはあるのだろうか。」

子供の頃、ひょっとして自分は宇宙人から操られている人形なのでは?と空想したことがあるけど、著者も子供の頃同じように、何者かに操作されているのではと感じたことがあったそう。

「何かに没入している人は、その人がその人であることでみなぎっている。」

この感覚もよくわかる。

確かに趣味など何かに没頭しているときは、今この時、自分自身を生きているという感覚に繋がっている。

詩人の萩原朔太郎は、角を曲がる時に、必ずその角の部分を触っていたそうで、この「ちょっとした病」は紛れもなくその人がその人であることの証であり、誰かと交換出来ない独自性だといっている。

そういえば私も子供時代、自分の本は読む前に、先ずその紙面の匂いを嗅いでから読み始める癖があったけど、これも自分を自分たらしめている「自分だけのルール」といえるのだろうな。

 

お笑いが大好きな著者は、その「なんでやねん」から、哲学が始まるといっている。

このツッコミの王道の言葉ながら、実は哲学対話の際に頻出する質問でもあるそうだ。

また、

役割を持っていない人を、私たちは軽視する傾向にあるので、それに対するささやかな抵抗として、著者は一人で「ただ存在する」運動を始めてみたそうだ。

街の中でただ植え込みに座って何もしない人になるという。

確かに、街中でスマホも見ず、ただ存在する人だけに徹するのは難しい気がするけれど、生命はただ在るだけで貴いものであり、その著者の発想や行動に親しみを感じた。

 

自分の行為がさざ波を生み、地球上の誰かが幸せになる

この世界は、思わぬ作用に充ち満ちている

作用とは不思議だ

わたしたちはみなひどく個別的で、孤独でありながら、

信じられないほど濃密に関係している

この言葉は、私が過去に読んだ本などから、きっとそうなんだろうとおぼろげに感じて来たことであり、本書で特に印象に残った一節。

 

「哲学とはセラピーという意味ではないケアである。気を払うという意味でのケア。

哲学は、知を真理をケアする。他者の考え、自分の考えをケアする。その意味で、哲学対話は闘技場ではありえない。」

という部分からも、「哲学対話」とは相手を言い負かすことではなく、著者は偉ぶった哲学者は苦手であり、あくまでもその参加者たち一人一人に寄り添ったファシリテーターであるという、その人柄が本書からよく伝わってきた。

 

本書での著者の色々なエピソードを読むと、小さい頃からとても繊細だったように感じる一方、世界を自分なりに面白く捉えているのも、永井さんの独自性なのだと感じた。

以前、色々検索してみた「哲学カフェ」には興味が薄れたけれど、永井さんの「哲学対話」には機会があれば一度参加してみたい気もする。

相手の話を聞くことが一番大事で、聞いているだけでもいいそうなので。(^▽^;)

 

タイトルに「哲学」と入っている本では、昨年読んだこちらも面白いエッセイだったので、オススメであります。

tsuruhime-beat.hatenablog.com