つるひめの日記

読書、映画、音楽、所属バンド等について日々の覚え書き。

読み聞かせ絵本と、日蓮の「死生観」について。

今月の図書館「読み聞かせ」では、こちらの絵本を読みました。

『これもえんです』舟崎克彦・文 / 橋本淳子・絵 / 文溪堂)

ある日、ぼくが幼稚園に行く道を歩いていると、ライオンから「おはよう!」と声をかけられます。そのライオンは、「これからえんへ帰るところ。」とのこと。

「ぼくはこれからえんに行くところ。じゃあ、一緒に行こうね。」と一緒に歩いていると、また、「えんに帰るところ。」というカバに出会います。

そして3人で幼稚園に着くと、保母さんはびっくり仰天。ぼくは、「みんな園児だよ。」といいます。

動物園に帰る予定がえん違いの場所に着いてしまいましたが、ライオンもカバもすっかり幼稚園が気に入ってしまい、園児と一緒になって遊び、楽しい毎日を送ります。

でもそれを見た保護者は、猛獣と一緒だなんて危険!と黙っていません。

保母さんは、ライオンたちを連れ戻してくれるよう、動物園に駆け込みます。

飼育員たちは驚き、早速幼稚園に向かいます。なぜか、虫取り網を振りかざして。笑

その晩、他の動物たちは、「あんなに気難しい二人が気に入っているえんならば、きっと楽しい場所に違いない。」と、皆で話し合い、幼稚園へ覗きに行って、そのまま他の動物たちもそっくり幼稚園に引っ越してしまいます。

保護者も、園児と動物たちが仲良く過ごしている様子を見て、一緒にその輪の中に入り、子供みたいにニコニコしてめでたしめでたし。というお話。

動物園と幼稚園のにかけて、が繋がって行くお話で、タイトルの付け方も上手いなぁと感じました。

入学・入園の季節でもあり、その春らしい絵からも、今の季節にぴったりかなと思い選びました。絵もこのように素朴で親しみが持てます。

園児がゴリラとあやとりしたり、大勢でハンカチ落としをしたり、何とも微笑ましくて。ハンカチ落とし、懐かしいです。( ´艸`)

 

今月から、お話ルームの定員人数が増えたのですが、当日はあいにくの雨模様で、着いたとき児童室は閑散として誰もいなかったのですが、直前に2組の親子の方々が聞きに来て下さり、雨で寒い中とてもありがたかったのでした。他のグループの読み聞かせ仲間の方も、二人聞きに来て下さってました。

仲間の方々も、それぞれ素敵な絵本と紙芝居を読まれていました。

来月は都合が悪くなってしまい、参加できなく残念です。

 

今回どちらにしようか迷った、もう一冊素敵な絵本を紹介します。

『ミリーのすてきなぼうし』きたむらさとし・作 /BL出版

ミリーは街中で、素敵な帽子屋さんの前を通りかかり、お気に入りの帽子を見つけましたが、お金を持っていません。そこで、店長さんが機転を利かせ、想像の帽子を頭に乗せてくれます。空想次第で、どんな帽子にもなる帽子。

ケーキ屋さんの前を通ったら、ケーキの帽子になったり、噴水の前では噴水の帽子に。またはクジャクの美しい羽根になったり、次々に想像の帽子をかぶってミリーは街を歩きます。

そして、帽子をかぶっているのは、自分だけではないと気づきます。

皆楽しそうな想像の帽子をかぶっている中で、寂しそうな水溜まりの帽子をかぶっているお婆さんを見つけます。そのお婆さんにミリーが微笑みかけると、ミリーの帽子から鳥や魚が飛び立ち、お婆さんの帽子に飛び移り、そのとたんお婆さんはルンルン気分で歩きていきます。そして、家に帰ってからも…

最後は、この言葉で結ばれています。

「そうです、誰だって持っているのです。自分だけの素敵な帽子を。」

 

作者のきたむらさとしさんは、20代前半イギリスに渡り、それから数年後、絵本を描き始めたそうです。

通りで、色彩豊かで、異国情緒たっぷりの素敵な絵です。街並みも、いかにもヨーロッパ風だし、どのページも美しく見入ってしまいました。

自分の自由な想像力で、形も色も自由自在に変えられる素敵な帽子。今の気分だったらと、想像を巡らせてみるのも楽しいです。

私も子供の頃から帽子は好きで、高校時代出かけるときに、紺色の服に紺のベレー帽をかぶって行ったら、友達から「バスガイドみたい。」と言われたのも懐かしい思い出です。('◇')ゞ

 

ところで、「読み聞かせ」では大丈夫なのですが、近ごろ歌うときに咳込みやすくなったり声が出にくくなったりします。

年齢のせいとも思いますが、最近読んだ記事で、マスク生活が長引いているせいで、若者でも声が出にくくなってる人が多くなり、今ボイス・トレーニング流行りなんだそうです。

歌うためだけではなく、会社でのプレゼンなどに向けて、ボイトレを活用しているのだとか。

なので、以前、読み聞かせ勉強会でもらった、発声練習の資料で時々ボイトレするようにしています。この読み聞かせにも、バンド活動にも役立ち、一石二鳥なので。

エクササイズでは、肩や腕の上げ下げ、手を添えて首を横に曲げたり。

鎖骨の下をマッサージすると呼吸が深くなるそうです。姿勢も大事なようですね。

 

話は変わりますが…

* * *

日蓮の「死生観」について

私のブロ友さんであるあい青子さんが、先日ご自身のブログで私の読書感想記事『死は存在しない』(田坂広志・著)を紹介して下さいました。

その中で、青子さんご自身やそのご家族、皆さん不思議な体験をされたことがあり、不思議に思っていたことを体験できそうで、死そのものについては怖くないと書かれていました。

www.aiaoko.com

青子さんは私と同じ世代であり、ビートルズはじめロック好きで、音楽ブログをマメに更新されています。

ご両親の介護や、ご自身も闘病生活を送られていて、大変の一言では済まされない人生を送られてきたことと思いますが、でもいつもポジティブで感謝の言葉が絶えないそのブログからは、こちらの方が元気を頂いています。

その青子さんから記事言及のお知らせがあった朝の前夜、私はNHK100分de名著でのアンコール放送日蓮の手紙』(全4回)の最終章、「病や死と向き合う」を観ていて、ふと青子さんのことを思い出していました。なので翌朝、その青子さんからのIDコールがあったので、その偶然にも驚きました。

青子さんのブログにはコメント欄が設けられてなく、ブックマークに短いコメントしか残せなかったので、その番組の内容を、このブログで青子さんに少しお伝えしたいと思います。(ご覧になったかもですが。)

以前も観たことがあるこの『日蓮の手紙』の著者でありこの番組講師が、以前法華経での私の感想記事をツイッターで紹介して下さった植木雅俊さんご本人だったので、またこのシリーズを観てみました。

以前観た内容は結構忘れてしまってましたが、今回、日蓮の「死生観」を表している最終話が心に深く残りました。

日蓮が、子に先立たれた尼さんであるその母親に送った手紙の中で、

生と死は、生命の2つのあり方であり、人間は、ある時は生きているというあり方を取り、またある時は死というあり方を取る。その2つでの生命本体は常に一貫している。

例えば、波は風が吹けば生じ、風が止めば波は消える。

波は、生と死を繰り返しているけれど、そこにある水は変わらない。

水はここでは魂ということであり、この考えは、腑に落ちるというか、心にストンと入って来るようでした。

そして日蓮は、夫や子に次々先立たれてしまったその尼さんに、「霊山浄土」という、生きている現在の私たちが立ちかえれる場所で、日夜いつでもそこで死者に会えるのだから、不安に思うことはないと伝えたそうです。

植木氏によると、その「霊山浄土」とは、永遠であり、宇宙大であり、一人一人の生命全体像を表していて、自分の原点に立ちかえる、命の根源のような場所とのことで、先の本で読んだ、現代科学の仮説である「ゼロポイントフィールド」と同じような場所なのかな?と感じました。

前回読んだ、こちらのフィールドについては、自分の中で上手くイメージ出来なかったのですが、この「霊山浄土」というのは、例えば会いたいと思うことによって、その亡くなった人を身近に感じ、心や夢の中で会えたり、話したり出来る場所でもあるのだろうとイメージできました。

青子さん、このブログで何か不快に思われたことがあったらごめんなさい。m(__)m

そしていつも読んで頂きありがとうございます。

 

うちの方の桜はもうそろそろ終わりですが、上を見上げて歩くことが多かったこの1週間でした。🌸